「最近世界で起きた戦争はみんな『平和』を大義名分に始めてるよね。
『独裁者の打倒』だとか『大量破壊兵器の除去』だとか、その都度仕立ては少し違うけど、みんな『平和のために戦争が必要なんだ』と国民を説得して、それが受け入れられて戦争が始まってる」
「今どきな、戦争のために戦争をする奴なんていねぇんだよ。戦争は平和のためにやる。平和が大好きなやつらが、世界中回って戦争してるんだ」
(根元聡一郎「プロバガンダゲーム」)
広告代理店の最終選考で就職活動中の学生が、仮想国家の「政府」と「レジスタンス」の2つに分かれて、「国民」を宣伝によって扇動し、戦争に向かわせるか、止められるかと競う、というのが「プロパガンダゲーム」という本でした。
その情報戦は、決して僕たちにとって無縁とは思えないリアルさがあります。
●客観的なニュースなど存在しない
イギリス留学中にメディア学について学ぶ機会がありました。
イギリスは新聞に思いっきり、新聞社や記者の主張が出てきます。
「僕は現場でこんなことを見てきた。そして、ここのNGOの活動を応援したい」という一人の記者の記事が、1面から3面まで載っているのを見たときに、伝える側の覚悟を感じました。
また、どの新聞か、どのテレビ局かによって、どのような政治的な主張なのかが明確で、
日本はその傾向はあるものの、ガス抜きとしての記事は出るものの、特定の勢力にとって本当に致命的な記事が出ないようになっています。
(新聞業界への就職活動中に読んだ本の中でも、よく言及されていました。
「プロバガンダゲーム」の中でも、仮名を用いながらも指摘があります)
日本のマスメディアでは「客観性」が強調されますが、客観性のあるニュースは存在しません。
「どう切り取るか」はもちろんですが、
「どのニュースを選んだか」の時点で、すでに記者や媒体の意思が働いています。
例えば、シリアの戦争において、武装勢力が占拠してる地域を奪還する際、
民間人が安全に逃げれられるように、バスが準備され、戦闘に巻き込まれないような配慮がなされていました。
(武装勢力としては「人間の盾」として、逃がさないようにする、という対抗措置をとります)
こうしたニュースは、日本では流れていません。
もし流れたとしたら、「見え方」が変わると思います。
つまり、「伝わっている情報」と「伝えない情報」がある以上、そこには主観があります。
(この話をする僕にももちろん、”意図”があるわけです)
シリアに関しては、これだけではなく、まさに「情報戦争」で、
様々な加工をされた「フェイクニュース」や、それを支援するお金の流れがありましたから、
「儲かるニュース」が力を持つようになっていました。
多くの人たちにとって、あまりに遠い国の出来事のため、鵜呑みにする以外の選択ができずに、
戦争を過熱させてしまって、今に至っているように僕は感じています。
(かつ軍需産業に加担する形のニュースを「きちんとした情報源」だと盲信し、そうした企業がスポンサーとなっているマスメディアからお金をもらうジャーナリストが日本メディアで発言権を持つ一方で、丁寧に真実に迫った取材をしている方は、マスメディアでは取り上げてもらえていないように感じます)
● 僕たちができることはあるのか?
先日、学校で講演をさせて頂きました。
「戦争について考えるきっかけになってほしい」というのが先生の要望でした。
「なぜ戦争が起きるのだろう?」について考えるということは、
「なぜ戦争が起こったのかを歴史から学ぶ」ことだと思います。
冒頭に紹介した「プロバガンダゲーム」の台詞にあるように、
耳障りの良い言葉、例えば「平和のため」「人々を守るため」などなど、
様々な建前が用意されて、戦争が始まった歴史があります。
時が経つにつれて、その建前ではない、本音が見えてきます。
湾岸戦争では、米国の広告会社が作ったシナリオを人々が信じたことがきっかけでした。
イラク戦争では、建前とされた大量破壊兵器は発見されず、人権のためという後付け(しかも、それを裏切るようなアルグレイブ収容所での残虐行為があった)が理由となりましたが、
「イラクが石油取引をドルからユーロへの切り替えようとした」ことへの報復措置であったことが明らかになっています。
(NATOによるリビア侵略も同様のシナリオでした)
そうした「なぜ戦争が起こったのか?」を、「ショッキングな映像」に流されることなく、
歴史から学び、検証していくことが、
平和について考えるうえで、大切なことだと思います。
● 信じるな。疑うな。確かめろ。
少しでもシリアの情報を確かめたくて、僕は自分の目で、耳で話を聞きに、シリアの隣国を訪れました。
その際は「ジャーナリストか?」と聞かれた時に「違う」と否定するようにしていました。
おそらく、ジャーナリストと言った方が吐露してくれる話があったかもしれません。
ですが、僕が話を聞かれる立場なら「ジャーナリストに聞かれるか、友人に聞かれるか」で話す内容が変わります。
僕が聞きたかったのは、「ジャーナリストに話したい話」ではなく、「友人と共有したい話」でした。その中に、彼らの心があると思ったからです。
また、「記事として発表する」という目的はありませんので、フラットな立場で耳を傾けられました。
(と言うのは、シリアにおいて、●●時のテレビ放送に間に合うように、△△の映像を撮りにいく、という”取材”があった、という話を聞いたからです。
その話を話してくれる人を紹介するコーディネーターを頼り、「必死の潜入取材」をする、と。
つまり、伝えたいのは現地の人の実情ではなく、あらかじめ決まっている放送したい内容だったのです。
それが「事実とは違う」と言い切ることはできませんが、僕の考える「現地の人の心の声」とは違うものでした)
信じるな。
疑うな。
確かめろ。
友人に教えてもらった言葉で、僕の大切にしている言葉の一つです。
先ほどの挙げた「情報」を含めて、僕も「妄信的に信じる」わけではなく、
確かめ続ける、考え続けることを欠かさないでいたいと思います。
重信メイ「アラブの春の正体」では、各地で起こっている「アラブの春」を「すべての同じもの」と考えられがちですが、国ごとに違いがあることを知れます。
また、「アラブの春」の発端とされる「政府や警察の残虐行為」が嘘だったことがあとで明らかになっていることは、國枝昌樹「テレビ・新聞が決して報道しないシリアの真実」に書かれています。