写真が伝えるもの。奪うもの。〜ポバティインクが伝えることと僕が伝えたいこと〜

 

Readyforスタート(9月27日(火)11:00)

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どうしてこんな写真を撮るんだ?

 

と、怒られた。

 

2009年のシリアにいた時のことである。

 

僕のカメラに写っていたのは、年代物の車だった。
なぜ、それがシリアの青年を怒らせたのか。

 

 

 

シリアで過ごす最後の季節だと思って

 

青年海外協力隊は、2年間の滞在の中で活動を行なう。

 

僕は、言葉や文化・習慣に慣れるのに1年かかり、
そして1年経ってから、ようやく活動が始められるようになった。

 

帰国後にシリアのことを伝えるために、
色んな写真を撮ろうとカメラを持ち歩いていたけれど、

まだ日本でもスマホが出ていない頃だったから、カメラを持っていると目立った。

 

だから、うんざりするほどに「写真を撮ってくれよ」と声をかけられる。

 

現地の人たちとも仲良くなってきて、アラビア語も話せるようになってきたから、
カメラを持って出歩くのも鬱陶しくなくなってきた。

 

シリアには四季がある。日本と同じように。
だから、「これがシリアで写す、最後の夏かもしれない」

「最後の春かもしれない」なんてことを考えながら、
歩いて写真を撮る。1カ月で少なくとも数百枚。

 

そして、その1枚に、友人であるシリア人が眉をひそめたのだ。

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シリアの春に咲く、アーモンドの花

 

 

 

 

 

聞かないとわからないはずなのに

 

「なんで?」というアラビア語にすっかり慣れていた僕は、彼に「何がダメなの?」と理由を尋ねた。

 

毎日、シリア人が「なんで?」「なんで?」と連呼してくるのだ。
これまた鬱陶しくて、文句を言ったら「理由を聞かないとわからないだろ?」と友人が教えてくれた。

 

たしかに、そうだ。

 

「常識」として均一化したものを教え込まれてきた日本では、「察する」のが文化かもしれない。
しかし、人種・宗教・民族などが入り混じるこうした地域では、「尋ねる」ことなしに相手の思いは測れない。

 

とはいえ、日本の「察する」は、僕らに過大なストレスを与えている気がしなくもない。

 

 

 

 

車の写真がダメな理由は

 

 

僕の写真にダメ出しをした理由。それは

 

「こんな古い車の写真なんかを見せたら、日本の人がシリアを途上国だと思うじゃないか」

 

というものだった。

 

 

あまりに古い車は日本で見ることは少なく珍しいし、
近代建築でもない背景が「カッコイイ」と思って撮ったのだけれど、
それが「古くて遅れている国」というイメージを与えてしまうことに、怒りを見せたのだ。

 

(「怒り」と言っても、コラコラというようなもので、激怒ではありません、念のため)

 

 

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シリアの村の結婚式の風景。カラフルな服装の女性が目立つ

 

 

 

募金の代償として、生み出す壁

 

 

かっこよさが「伝わる」と思って撮ったつもりが、
現地の人から見たら「かっこ悪いじゃないか」と不服を感じさせるものになってしまった。

 

 

と、いうことは他にもありうるんじゃないかな、と思うのは、
先日、見てきた映画「ポバティインク 〜あなたの寄付の不都合な真実〜」に似たようなシーンがあったからだ。

 

 

 

「かわいそうなアフリカの人たちを救おう。そのために募金しよう」
と、チャリティソングを歌うアーティスト。
大きな注目を浴びて、募金は集まる。

 

しかし、その代償として、僕らは

「アフリカは絶対的に貧しく、かわいそうだから、何かを施してあげないといけない」

という、揺るぎないメッセージを受け取る。

 

「支援対象」でしかないので、対等なパートナーになる日なんて想像もできない。

 

そのことに、国連職員であるアフリカ人女性が、静かに怒りを表していた。

 

 

 

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例えば、色をモノクロにするだけで、与える印象は変わるだろうか?

 

 

 

ちょうど、その映画を見る前日に、友人と議論していたのが、
「支援のためのお金を集めるために、可哀想な写真を使うのはどうか」ということ。

 

友人は、目的であれば、病院で血まみれの子どもの写真や可哀想な写真を使う。
集まったお金によって、助かる命が、希望があるのだから、良いじゃないか、と。

 

僕は、それはやりたくない、ということで、議論をしていた。

 

 

 

 

まさにその議論の直後だったので、僕が言いたかったことを、

この映画が代弁してくれていたように感じた。

 

メディアにたくさん出てくる「悲しい写真」が、不必要なわけでない。
写真を通して伝えられたことによって、動くものがあり、助かる命がある。

 

間違いなく、必要だ。
しかし、それが僕の役割ではない、と思うのだ。

 

 

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ヨルダンのザータリ難民キャンプでサッカーに興じる子ども達

 

 

 

僕のこだわり

 

 

「可哀想だから」ではなく、「素敵な人たちだから」、何かをしたい。
「昔から困っていた」のではなく、「日本以上に豊かな暮らしをしていた」のが今、そうじゃない。

 

それが、僕がシリアの人たちのために動くときに、「こだわりたい」と思っていることである。

 

 

協力隊のときも、「与える」のではなく、僕がするのでなく、
「彼らはできる。僕は、それを発揮できるために、つなぐだけ」
ということだけを考えていた。

 

 

シリアの人たちの状況は、どう考えても過酷であるし、
それを知っているからこそ、僕も動いている。

 

しかし、「かつてのシリアを知らない」という中で、伝えられているシリアには多くの違和感がある。

 

 

せめて、僕が伝えるシリアは、
美しさや、あったかさや、希望にあふれたものにしたい、と思っている。

 

 

 

 

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