家族といる、という当たり前の幸せを感じたヨルダンのタクシー

タクシーを拾い、行き先を告げようと窓を覗き込むと助手席に先客がいた。
男の子である。
おや?と思ったが、窓ガラスが開いたので行き先を言う。
すると運転手は、「乗りな」と僕に言って、子どもを後部座席に移動させた。
 
「あなたの子どもなの?」と聞くと、そうだと言う。
学校の後、子どもと一緒にタクシーを走らせ、車内で子どもからの質問に答えながら、色んなことを教えているんだそうだ。
そんな小学生高学年らしき子どもは、スマホを操りながら、後部座席で静かにしている。
 
IMG_8227
中東の国ヨルダン。
騒乱で揺れるシリアの隣国で、シリアからの難民が移住してきている。
UNHCRのHPによると、2015年12月でシリア難民は422万人、そのうちヨルダンには63万人が住んでいるという(トルコ218万人、レバノン107万人、イラク24万人、エジプト13万人)。シリア国内に残っている国内避難民を含めると、シリアの全人口の半分以上が、もともと住んでいた地を離れて暮らしている計算になる。
また、ヨルダンに住む難民の8割は、難民キャンプの外に住む都市難民となっている。
 
難民を受け入れている地域を「ホストコミュニティ」と言うのだが、ホストコミュニティに与えている影響は決して小さくない。
ヨルダンの公立の学校は授業を午前と午後に分けて、午前をヨルダン人、午後をシリア人が通うようになった。
原則、難民はヨルダンで働くことができないが、難民キャンプの外に出た多数派の難民は、国連やNGOからの配給や補助金では家賃をまかなうことさえ困難な状況にあり、こっそりと働いているケースもあるそうだ。
 
「アンマン出身なの?」と、タクシーの運転手に聞く。
50歳とは思えない若々しい笑顔を浮かべて、「そう、俺はヨルダン人だよ」と言い、そのまま言葉を続けた。
「俺の親父はパレスチナ出身だけどな。俺は生まれた時からヨルダンに住んでいる」
 
第一次世界大戦の前、現在のトルコ・シリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル(パレスチナ自治区)はオスマントルコ帝国という巨大な国だった。敗戦後、イギリスとフランスにほぼ現在の国境と同じ形で分割統治される。
現在のイスラエルに住んでいたアラブ人たちは、ユダヤ人に住む場所を奪われる形で難民となり、多くのアラブ人が周辺国に住み始めた。現在ではヨルダンの人口のうち過半数がパレスチナ難民だそうだ。
 
2005_0913トルコ旅40153
「パレスチナに帰ることもあるんだ」
生まれ育った場所ではない。だが、民族として、家族としてのルーツがある場所。
近くて遠い場所に、彼はどんな思いを寄せているんだろうか。
 
僕が10年ほど前に、ヨルダンの死海を訪れたときに出逢ったのもパレスチナの青年であった。
夕焼けが沈む死海の向こう側を指差し、「僕の故郷は、この死海の向こう側にある」と寂しそうな顔でつぶやいた。
あまりに美しすぎる夕焼けが、かえって残酷に見えた。
 
そんなことを思い出して、運転手との会話が途絶えていた。
そして、ふと、後部座席に座る子どもに目を向ける。スマホに夢中で僕にも関心がなさそうだ。
赤信号で車が止まり、運転手が僕に話しかける。
 
「生活はどんどん厳しくなってる。給料は増えない。けど生活費は上がり続けてる。
生きることは、簡単なことじゃない。
 
ただ…家族と一緒にいれるっていいよな」
 
 
アラブの人たちは、本当に家族を大切にする。
僕が住んでいたシリアでも、何度も親のことを聞かれて、僕の両親の名前まで覚えられた。
ヨルダンで生きるシリア難民の女性が言っていた。
 
「すべてのシリア人が、家族の誰かを失っているの」
 
ニュースでは数字でしか出てこないが、一人、たった一人でも、その重さは決して軽くない。
 
 
家族と一緒にいること。
そんな「当たり前」に思えることにも、幸せを感じていた人たち。
そんな人たちが、失なってしまった「幸せな当たり前」が、ここにある。
 
 
「一緒にタクシーに乗って、色んなことを教えて、こいつが色んなことを覚えて。
 こいつが大人になった時に、幸せな生活が送れるようになった欲しいもんだ」
 
この子が大きくなったとき、どんな日常があるんだろうか。
幸せな当たり前がある日々でありますように、と願い、彼らに別れを告げた。
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です