思い出話、というのは美化されるものなのかもしれない。
「あの頃はよかった」「俺の若い頃は」と。
しかし、男は巻き煙草の煙を燻らせながら、目じりに皺を寄せて言う。
「昔は子どもがたくさん死んでいた。学校に行けなかった。
だが、 今は違う。
子どもは滅多に死ななくなったし、ほとんどの子どもが読み書きを出来るんだ」。
男の名前はハルフ・イスマイール。アルファラット村の学校で教鞭をとる 50 歳。
アルファラット村は人口 3 千人程度の小さな村だが、周辺の村々から子ども達が集まる場所でもある。
それは、予防 接種を受けるための保健センターがあることに加え、中学・高校があるからだ。
小さな村でも小学校があるのが今のシリアでよく見られることだが、中学・高校はやや大きな村に限られる。
そのため、アルファラット村には周辺の村々から子ども達が集まる。
とはいっても、小中高の学校の建物が分かれているわけではなく、
午前中に小学校の授業、午後 に中高の授業がある、といった二部制である
(ただし、週交代で午前と午後は入れ替わる。つまり、午前に授業があっ た翌週は午後に授業があるのだ)。
朝は 7 時半から始まり、午前の部も午後の部も 6 コマだ。
夏の間は 45 分授業で、冬は 40 分授業に短縮される。
お昼ご飯に給食が出ることはなく、それぞれ家に帰るのだが、学校の近くに雑貨屋さんがあり、そこでチップスやビスケット、ビズル(ヒマワリやかぼちゃの種)などのお菓子を買って小腹を満たす子ども達も多い。
2 コマごとに挟まれる 15 分の休憩時間になると、親から貰った 5SP(約 10 円)を持って雑貨屋になだれ込む。
遠くは 1 時間歩いて通う生徒もいることを考えれば、朝ご飯抜きに来ている子どもも居るかも知れないな、と思う。
ハルフ・イスマイール先生はこの村の小学校で教えている。
が、15 歳の時の彼は高校に進まなかった。貧しさのあまり働くしかなかったからだ。
隣国レバノンの首都ベイルートに行き、肉体労働をした。
その頃に今の夫人と結婚。
そして 1971 年、最初の兵役へ。
彼は今まで 4 回の兵役、計 5 年間を兵士として過ごしており、
その間にイスラエルの飛行機を大砲で撃ち落としたこともある、と誇らしげに語る。
教師の資格を取ったのは 25 歳だった。
どこにも通うことなく、仕事の傍ら自習をし、3 年を経て高卒の資格を得た。
「村で初めての高卒資格だったんだぞ」と黒く焼けた男は微笑む。
シリアでは高卒資格があれば学校で教壇に立つことができるようで、彼も先生として、村の学校で働くようになった。
また、彼は女性の識字教室の講師として働いていたこともある。
女性に読み書きを教える夜間学校。2 年間通えば、 小学校卒業の資格も得られる。
村人から選ばれる講師にはシリア政府から月 1000SP の給料が渡される仕組みだ。
条 件は 15 人の女性の応募者が集まることだけ。
建物は村の学校の教室を使う。
「ならずもの国家」などとアメリカ政府から名指しされるシリア政府であるが、
その実、1970 年以来、学校・道・電気・文化センターなど生活インフラを整えて生活を改善させており、
村では心からシリア政府を慕う声を聞くことも稀ではない。
どうして先生になろうと思ったのか。
尋ねると、子どものころからの夢だったんだ、という答えが返ってきた。
「それに年下の従兄弟のアフマドが先生だしね。悔しいじゃないか」と。
薄い紙に煙草の葉を包み、丸めた紙を唾で湿らせて煙草の形を作る。
火をつけ、煙を吸い込む。少し、咳き込む。
僕を見て、つぶやく。
「先生になって良かったって思うのは、 子どもが読み書きできるようになっていく、
その成長を見るのが幸せだからだよ」。
授業の無い日は、野菜を育て、ウサ ギや鳥を狩り、湖に行って魚を獲る。
趣味と実益を兼ねた充実の毎日。
そして、今日も、未来を創る子ども達を前に、 学ぶ喜びを伝えるため、彼は教壇に立つ。
(この記事は、2009年のシリアで聴いた話を元にしています)